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ハンディキャップ
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「両方のわたしがみた世界」
第1回 ハンディを負っちゃった!
このページはハンディを負った方の体験談です。
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失聴した時は2歳〜2歳半、障害認定と決定したときはもう3歳半になっていた。
その間に体験したことは一部分だけでも鮮烈に覚えてる。
ピンクレディが一番流行していた頃に、よくTVの前で振りマネをしていた。
両親はそれを見て、「そのうちに歌うんだろうね、きっとうまいんだろうね」と成長を期待していた。
ところが、いつまでもたっても歌わないし、言葉の成長がみられない。
名前を呼んでも返事したり、しなかったりする。不審に思った両親は役場の紹介で、障害者センター内にある診察所へ行き、検査を受けさせた。
なんでこんなことをされるんだろうかと不思議でとても理解できなかった。
検査が始まってしばらくすると、ピーピーとやら、ブーブーとやら聞こえたり、聞こえなかったり。
聞こえると「ん? ん?」とうろうろと反応する。
聞こえなかったら、おとなしく待ってるというような反応の様子を確かめるやり方だったと思う。
素の耳で聞くもんだから、相当のデカイ音だった違いない。
普通の子なら耐えられないほどデカイ音でびっくりして泣きわめくはずだ。
しかし、デカイ音でもわたしにとっては普通の音だったのだ。
聴力の経過を見るために半年の間をおいて聴力検査が2回もあるのだが、その半年の間は、なんともいいようがないとてつもなく大きな不安に襲われていた。
この頃の写真を見返してみると、どれもこれもみんな表情が暗く、遊園地のような所へ出かけていった時のものでも、ちっとも楽しそうではない。
それだけ不安でしょうがなかった。
もちろん両親も不安だったのだろう。
良くなるかもしれないと思ってあれやこれやと試されたことがある。
耳にいい食品を食べたり、マッサージを受けたり、薬を飲んだり・・・・
その中に一つ、祈とう師を呼んでお払いを受けることもあった。
治るわけでもないと思うけれど、当時は両親も必死だった。
自分のこどもがこんな状態になってしまっても、障害は受け入れられない、障害だと信じたくない、絶対治るものだと信じて、良くなって欲しいとわらをもつかむ思いだっただろう。
なにを試しても効果がないし、もうただ諦めるしかなかった。
諦めることが唯一の方法だった。
2回目の聴力判定の後に前回の判定から
なにも変化が見られないため、障害認定と決定された。
その後になってやっと補聴器を購入したのである。
補聴器をつけると生き返ったように表情が 明るくなってなんでも聞こえるのがうれしくて わぁわぁとわめいていた。
音という個体の認識がなくても、 ただ聞こえることが一番Happyだった。
親に連れられて補聴器をつけたまま、外に出た。
公園に向かう道の中に、いろんな音が聞こえているのが うれしくて、「あの音はなーに?」と音に対する興味が 湧いて音の当てっこゲームなんかしたりと楽しかった。
公園に着くと、さっそく他の子達と混ざって遊んだ。
ところが、すこし違うことを気がついた。
『周りの子はみんな補聴器をつけていない』
「あの子達はなんで補聴器をつけないんだろう?」
「私だけなのか?」
「みんなとは違うんだろうか?」
「普通じゃないのか?」
周りの子達はわたしが持ってる補聴器をじろじろ見てる。
向こうの子達ももちがうと疑問を感じていただろう。 しばらくして、初めて難聴学級へ行くことになった。見た目は普通の幼稚園とは変わらない所だけど、通ってる子達はみんな私と同じ補聴器をつけていた。
あっ?私と同じモノをつけてる!ここはつけていいところなのかもしれない!
ちょっと不安はあったのの、なんとなくみんな自分と同じ気がして嬉しかった。
それから、女性の先生に出会った。
一番の最初の会話が「こんにちわ」
普通の挨拶だけれど、違うのははっきりとゆっくりと話し掛けられてるということ。
親よりすごくわかりやすい声で安心するような感じだったので、先生の方がいっぺんに大好きになっちゃって、ずっとついてまわっていた。
今から思えばもしかしたら親はちょっとヤキモチを妬いたかなと思うくらい、「先生、先生」だった。
外に出れば、わたしの持ってる補聴器と発音の悪さのせいで人からじろじろ見られ、 外に出るのを抵抗を感じていたけど、難聴学級は違う。
補聴器をつけてもじろじろ見られないし、私だけでなく、他の子達も同じ補聴器をつけてる。
難聴学級は私一人だけじゃない、他の子達もいるんだ!と安心できる場所に出会ったのだ。 |
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